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軍団 (古代日本)[ぐんだん] 軍団 (ぐんだん) は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」または「団」をつけて呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。 == 軍団の成立 == 軍団は大宝元年(701年)制定の大宝律令に規定されているが〔野田嶺夫『律令国家の軍事制』「大宝軍防令条文の復元と史料」1-43頁。〕、いつ成立したかを直接記す史料はない。7世紀半ばまでの日本の軍隊は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。国造軍と比べたときの軍団の特徴は、兵士を国家が徴兵したことと〔山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。〕、軍事組織を地方民政機構から分離したことの二点である〔橋本裕「軍毅についての一考察」9頁。〕。遅くみる説では大宝令となるが、もう少し早くみて持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令によるとする説が有力なものとしてある。 兵士を国家が徴兵するためには、個々の住民を記載する戸籍を作成し、戸籍を利用して誰を兵士にするかを決定する必要がある。そのためには戸籍によって人民一人一人を把握できる体制が作られなければならない。戸籍の始まりは天智天皇9年(670年)の庚午年籍なので、これが有力な候補となる。庚午年籍は不十分なものだったとみて、持統天皇4年(690年)の庚寅年籍にあてる説もある〔山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。〕。 国家が徴兵した兵士は、軍団に編成されることも可能だが、評(後の郡)を単位に部隊をなし、評の役人に率いられていたかもしれない。そういうものを大宝令以降の軍団と同じものと見るのは無理で、評制軍あるいは評造軍と呼ぶべきものとなろう。軍団成立のもう一つの基準として軍毅の成立や評の関与の有無が着目される理由である。軍隊指揮用具と大型武器を私家におかず郡家(実際には評の役所〔この詔を伝える唯一の史料である『日本書紀』は、古い時代の評を郡に書き替えている。評の役所を何と呼んだかは不明。〕)に収めることを命じた天武天皇14年(685年)11月4日の詔は、この時期に軍事指揮が評に握られていたことを推定させる有力な証拠である〔『日本書紀』天武天皇14年11月丙午条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の453頁。橋本裕「軍毅についての一考察」10-11頁。〕。それ以降となると、飛鳥浄御原令と大宝令が有力候補となる〔橋本裕「軍毅についての一考察」12-13頁。橋本自身は大宝令説を採る。〕。
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